研究対象に1852年に設立されたミディ鉄道会社を取り上げ、サン・シモニアンペレールがどのような理由で、この鉄道建設にかかわったかを、ミディ鉄道会社の内部史料Proes Verbal du Conseil D'Administration を通じて明らかにしようとしたものです。この鉄道会社は、従来収益性に乏しく経営的には6大会社中最悪であったといわれています。また、ガロンヌ運河が政府によって建設されるという時期的問題もあって、1842年の鉄道法に含まれていたものの、その地方の人々の願いにもかかわらず、なかなか認可されませんでした。実際この鉄道は1846年に会社に認可が与えられますが、その会社は1847年に破産してしまいます。しかし1852年再び運河を引き継ぐ条件で、鉄道の建設もが認可されることになります。この鉄道建設の背後には、ペレールを中心とするサン・シモニアンたちの地域発展の平等性・整合性を実現しようとする意図がありました。そのためにはパリを中心とする、オート・バンク(ロートシルトを代表とする)の資金力に依存している限りそれは実現できるものではありませんでした。そのためには新しく銀行を設立し、することが重要でした。それがクレディ・モビリエです。ミディ鉄道会社の取締役にはロートシルトらが名をつなれていましたが、内務省の指導という形で取締役会の人数が、制限されると、それに乗じてペレールらがこの会社における主導権を確立します。この主導権の確立はロートシルトの反発を招きますが、時同じくして設立された、クレディ・モビリエの資金力に依存できるという条件がそのときまでには整っていたのです。今後の研究は、実際にミディ鉄道会社とクレディ・モビリエとの資金関係がどのようなものであったかを明らかにしたいと考えています。 |