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第5回企画展示 貨物ターミナル 汐留
2004年8月10日〜11月21日
 
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鉄道貨物輸送は、新橋横浜間に鉄道が開通した1年後の1873(明治6)年に営業を開始した。当初は鉄道そのものの距離が短かったため、貨物営業もまた部分的なものでしかなかったが、鉄道の延伸に伴って、貨物の輸送量も徐々に増えていった。
1914(大正3)年、新橋停車場は貨物専用ターミナルとなり、汐留駅と改称する。大正期は第一次世界大戦による影響を受け、鉄道貨物に対する輸送の要請が高まり、貨物輸送の収入が旅客輸送の収入を上回る時期もあった。1923(大正12)年に起こった関東大震災では汐留駅もまた大被害を被った。
1934(昭和9)年から1936(昭和11)年にかけて行われた大改良で汐留駅は駅施設、構内配線を抜本的に改善し、本格的な貨物ターミナルとしての機能を備えたのである。
第二次世界大戦における被害は鉄道においても甚だしかったが、戦後復興期には鉄道の貨物輸送に対する要請が高まり、捌ききれない荷物や貨物が駅に滞っていた。昭和30年代にはトラックの発達や荷役の機械化などが進み、従来型の駅設備では物流の取扱いに対応できなくなってきていたため、駅を近代化するための改良工事が行われた。
昭和40年代には鉄道貨物がピークを迎えたが、それ以降は停滞を余儀なくされた。その中で、汐留駅は新しい東京貨物ターミナルへ徐々に機能を移し、1986(昭和61)年10月に東京における対西日本向けの物流拠点としての役割を終えたのである。
 
 
 
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【主な展示内容】
 
「明治期の鉄道貨物輸送」
 
鉄道ができる以前の物の輸送は海運や水運、飛脚、馬車、荷車、大八車などを利用した陸運を主としていた。 1873(明治6)年9月15日、鉄道貨物輸送が開始された。営業開始当初は1日1往復を定期便とし、取り扱い駅は新橋と横浜のみであった。
鉄道による輸送が始まったといっても新橋横浜間、大阪神戸間(1874年の開業)など部分的でしかなかったため、明治に入ってもなお水運や馬車などを利用した輸送が行われていた。
特に水運は重量物を輸送できる手段でもあったため、鉄道建設とは常に結びついていた。鉄道と水運を連結させた駅は多くあり、新橋停車場もまた、そのような駅の一つであった。貨物の取扱量は鉄道の延伸と共に少しずつ増えていった。
手荷物の取り扱いは1872(明治5)年の旅客営業開始と共に始まっている。乗客が小包などにして車内に持ち込む手回品は無賃とし、それ以上の手荷物に関しては1人60斤(36kg)を限度とした。30斤までが25銭、30斤から60斤までを50銭で輸送していた。中間駅での発着は半額であった。また、郵便輸送も開業直後から開始されていた。
 
地海軍大学校上空よりみた新橋停車場 1904年 宮内庁書陵部所蔵
 
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「新橋停車場から汐留駅」
 
1914(大正3)年12月20日、東海道線の旅客ターミナルとして東京駅が開業し、新橋停車場は貨物専用ターミナルの汐留駅となった。貨物専用駅となった汐留駅は、不要となった旅客ホームを貨物扱場へ転用、機関区など業務機関の移転跡地の活用による構内配線、積卸場の増強、汐留川及び運河沿いの水陸連絡貨物積卸場の改良が行われた。
これらの改良により、1916(大正5)年には汐留駅の貨物取扱量が年間100万トンに達した。また、この時期、第一次世界大戦による生産増加、輸出超過と船舶の不足などによって、大正中期には鉄道貨物に対する輸送の要請が急速に高まり、駅頭滞貨や沿線在貨が極度に増加した。
この頃、鉄道貨物輸送の収入は旅客輸送の収入を上回っていた。 1923(大正12)年に起こった関東大震災により、汐留駅構内のほとんど全ての施設が焼失した。 震災復興後の汐留駅は建物、荷役ホームなどすべてバラック建てで、積卸場は舗装されず、また経済不況なども重なり、構内の改良工事も先送りされていた。 1934(昭和9)年の日本経済の立ち直りと共に、汐留駅構内の大改良が行われ、1936(昭和11)年に完成した。この大改良では駅施設、構内配線を抜本的に改善し、本格的な貨物ターミナルとしての機能を備えた。また、積卸場の舗装、拡張、上屋の整備通路の拡張などを行い、荷役作業の効率が良くなるように改善された。
 
汐留駅改良工事 1934年頃 第七回改良講演会記録より
 
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「戦後の鉄道貨物」
 
第二次世界大戦中の戦災による鉄道被害は甚だしく、輸送に直接的な車両については、機関車、旅客車の約20%、貨車の損耗はさらに大きく、残余の車両も老朽、破損、故障などの不良車が多く輸送力は大幅に低下した。汐留駅の場合には、特に1945(昭和20)年3月10日の空襲で焼夷弾を多数投下され、貨物積卸場などの構内施設を焼失した。終戦後は復旧に重点が置かれ、輸送力増強のための線路増設や車両の増備、ターミナルの改良などは後回しとなった。
このような状況下で、鉄道貨物輸送に対する要請は日々高まり、あふれる荷物、貨物を効率的に捌くことが重要視され、昭和20年代後半にはいくつかの貨車ヤードの整備、改良が進められた。汐留駅では、今後の貨物輸送近代化の方向を踏まえて、まず用品庫や老朽化した積卸場を整理した。
混載プラットホームの新設、小口貨物や荷物集約基地、またコンテナ輸送の開始に向けての車扱積卸場のコンテナ取扱プラットホームへの改良などが進められ、1959(昭和34)年、東京の汐留駅と大阪の梅田駅間で「たから号」によるコンテナ輸送が始まった。汐留駅は東京の西日本方面に対する物流の拠点駅であり、取扱内容は東京都の台所に相応しく、生活関連の一般雑貨、小口の混載貨物が中心であった。
 
東京 汐留駅 手荷物荷捌場 物流博物館所蔵
 
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「汐留駅から東京貨物ターミナル駅へ」
 
昭和40年代の貨物輸送は、鉄道貨物輸送の転換期となった。鉄道輸送は輸送トン数で1964(昭和39)年の206百万トン、輸送トンキロでは1970(昭和45)年の624億トンキロをピークに停滞を余儀なくされた。国民生活水準の向上と共に、道路の整備とトラックの発達は、輸送機関選択の多様化をもたらし、輸送機関側の効率性を追い求めた輸送から顧客のニーズに合致した輸送が選択されるようになった。
1971(昭和46)年の第一次石油危機以後、鉄道貨物輸送はこれまでの貨車ヤードを軸とした輸送から直行輸送方式へ転換を図り、鉄道輸送の特性が発揮しやすいコンテナ化、物資別専用輸送の道を選んできた。その中で、汐留駅は新しい東京貨物ターミナル駅(昭和48年に一部開業、昭和54年に全面開業)へ徐々にその機能を移し、1986(昭和61)年10月に東京における対西日本向けの物流拠点としての役割を終えたのである。現在、東京都内の貨物専用駅は東京貨物ターミナル駅と隅田川駅がある。汐留駅の機能を受け継いだ東京貨物ターミナル駅は、JR貨物内では、3番目に取扱量が多く、駅の面積では1番大きな駅である。
 
EF210けん引コンテナ貨物列車 JR貨物提供
 
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