財団アーカイブストップ > 第3回企画展示 「首都・東京の形成」
 
財団の活動成果を、豊富な記事や資料でお楽しみいただけます。
 
  旧新橋停車場 鉄道歴史展示室で開催されたこれまでの展示会の記録をご覧いただけます。
  >> 現在開催中の展示会はこちらから
  >> アーカイブストップページへ戻る
 
第3回企画展示 「首都・東京の形成」
2003年12月2日〜2004年3月28日
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明治という新しい時代が始まり、東京が首都に定められると、近代の首都にふさわしい都市の装いが求められていく。文明開化の始まりを告げる築地居留地、洋風商店街を作った銀座煉瓦街の建設、首都・東京を飾る日比谷・霞ヶ関で行なわれた計画、東京の玄関を造ることになった丸の内の開発など、近代都市・東京の表舞台が造られていった。
江戸(東京)に居留地を造ることは、1858(安政5)年の日米修好通商条約で義務づけられていたが、実際に居留地が開設されたのは明治になってからである。築地居留地は、外国と貿易を行う港をもたない開市揚であったが、そのことがその後の築地の性格を大きく決定し、エキゾチックなまちが造られていくことにもつながっていった。
明治初期に行われた銀座煉瓦街の建設は、道路拡幅と都市の不燃化を目指した、日本で実施された最初の近代的都市計画でもあった。西洋の商店街をまねて造られた銀座煉瓦街は、建設当初こそあまり人気が無かったが、やがて日本一の繁華街に発展していく。
この動きは、明治中期に進められた鹿鳴飴の建設、官庁の集中計画、そして日比谷公園の開設につながっていく。そこには、首都を美しく飾ろうという思いをみることもできる。 丸の内一帯の開発は、近代東京の玄関を造っていく動きでもあった。その思いは、東京駅が当初、「中央停車場」と称されていたことからも窺うことができる。明治後半には煉瓦造のオフィスビルが建ち並び、人々から「一丁ロンドン」と呼ばれた。 これら建物の建設、都市計画を通して、東京は近世から近代に歩んでいったのである。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
【主な展示内容】
 
築地居留地 −文明開化の始まリ−
 
築地居留地の開設は、1869年1月1日(太陰暦明治元年11月19日)である。 居留地を開くにあたって、遊郭や外国人専用の旅館もつくられた。居留地は旧大名屋敷の地ならしから始められ、1870(明治3)年から競売が行われた。貿易港を持たない築地居留地は商業地としては不振に終わったが、1873(明治6)年に切支丹(キリシタン)禁制の高札が取り除かれると、キリスト教布教の中心地として、教会や学校が多く設立され、他の居留地とは異なった独自の性格をもつようになっていった。鐘が鳴り、讃美歌の聞こえる教会、オルゴールの響くミッションスクール、外国語が飛び交う洋館での生活など、築地居留地は西洋の空気を吸うことのできる、エキゾチックな香りを伝える場所になった。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
銀座煉瓦街 −洋風商店街の誕生−
 
1872年2月26日(明治5年4月3日)、和田倉門内にある兵部省(ひょうぶしょう)から出火した火災は、銀座から築地一帯を焼き尽くす大火となった。この大火を契機にして、銀座煉瓦街の建設が進められていく。煉瓦街の建設を推し進めたのはこの頃大蔵省にいた井上馨(かおる)と渋沢栄一で、計画はイギリス人のトーマス・ジェームス・ウォートルスに託された。
銀座煉瓦街が造られ始めた頃、その南側の汐留では新橋横浜間の鉄道工事が完成を目指して進められていた。煉瓦街の建設は、最初に道路の拡幅と建物を不燃化することを定めて進められた。京橋から新橋までの表通りには、左右に歩道をとり、街路樹を植え、ガス灯を灯した。車道はアスファルトのような舗装をし、歩道には煉瓦を敷き詰めていた。建物はいくつかの店が集まって一棟となっており、前面にはアーケードが設けられた。壁は煉瓦の上に洋風の漆喰を塗って仕上げ、薄いクリーム色をしていた。
建設当初には空き家が多く、どことなく寂しさを漂わせていたが、1887(明治20)年頃から繁昌し始め、やがて日本一の繁華街に発展していく。明治20年頃の銀座の街並みで興味深いのは、当初の純洋風の街並みに格子戸を設けたり、暖簾(のれん)を垂らしたりと、和風の要素を付加した建物が多く見られるようになっていった点である。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
日比谷・霞ケ開 −首都・東京の装飾−
 
首都・東京を欧米の都市のように美しく飾ろうとした動きがあった。その動きは、鹿鳴館(ろくめいかん)を建てることに始まり、霞が関の官庁街計画、そして日比谷公園を造っていった。
鹿鳴館が日比谷練兵場の傍らに造られたのは1883(明治16)年11月である。建設の目的は日本の都市を西洋風の建物で飾り、不平等条約撤廃のための舞台をつくることにあった。建物の設計をしたのは、工部大学校造家学科(現・東京大学建築学科)の教授として、1877(明治10)年に来日したイギリス人建築家ジョサイア・コンドルである。鹿鳴館では、連日のように舞踏会や宴会が開催された。
鹿鳴館建設と前後して、本格的な官庁の集中計画も進められている。設計を担当することになったのは、ドイツ人建築家のヘルマン・エンデとウイルヘルム・ベックマンである。1886(明治19)年には、東京全体をパリのように壮麗な都市にしようとする、官庁街を越えたスケールの計画案がベックマンによって作られている。計画案の多くは完成しないままで終わってしまったが、司法省(旧・法務省、現・中央合同庁舎赤れんが棟)と大審院(だいしんいん)(現・最高裁判所)が建てられた。 1903(明治36)年に開園した日比谷公園は、社寺仏閣や江戸の景勝地、旧跡を引き継いだそれまでの公園と異なり、伝統的なつながりの全く無い新しい場所に建設された洋風の公園である。日比谷公園には、家族連れが訪れることも多く、後につくられた音楽堂では、西洋音楽が楽しめた。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
丸の内 −東京の玄関−
 
閉鎖的な封建都市・江戸を、道路、運河、上下水道の改良や、築港、公園などを整えた近代都市に造り替える東京市区改正条例が公布されたのは1888(明治21)年である。
江戸時代の「丸の内」は大名屋敷が建ち並んでいた。明治になり、丸の内の大部分は宮城を守る軍用地として使用されたが、明治中頃にはその必要性もなくなり、民間に払い下げられた。払い下げを受けたのは三菱財閥で、ここにロンドンのオフィス街をモデルにした西洋風の街を造っていった。
1894(明治27)年には煉瓦造の三菱一号館が、続いて二号館、三号館、さらに東京商業会議所も建てられ、「馬場先通りの四軒長屋」と呼ばれた。日露戦争後には煉瓦造の建物が多く建設された。1914(大正3)年には辰野金吾の設計で、明治の終わりから工事を行っていた中央停車場(現・東京駅)も完成している。 丸の内には数多くの赤煉瓦の建築物が並び、人々から「一丁ロンドン」と呼ばれた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
お問い合わせ先
旧新橋停車場 鉄道歴史展示室
Tel. (03)3572-1872
〒105-0021 東京都港区東新橋1-5-3


取材対応

東日本鉄道文化財団
Tel. (03)5334-0623 Fax. (03)5334-0624
〒151-0053 東京都渋谷区代々木2-2-2

 
 
免責事項等   個人情報保護について   English   中国語
 
Copyright East Japan Railway Culture Foundation.All rights reserved.