小林徳三郎(1884-1949)は、日本近代洋画の改革期に活躍した画家です。1909年に東京美術学校を卒業、若者による先駆的な絵画表現で注目を浴びたフュウザン会に参加し、雑誌『奇蹟』の準同人となり、出版の仕事や劇団「芸術座」の舞台装飾に携わりました。また、洋画家として院展や円鳥会展に出品、1923年からは春陽展を中心に発表を続け、鰯や鯵といった魚を主題とした作品を数多く描き、周囲に強い印象を与えました。
40代半ば頃より、自分の子供たちをモデルに何げない日常を表現した作品が増え、時にはマティスを連想させる明るい色や筆遣いの静物なども描いていくようになります。晩年は、江の浦(沼津市)をはじめ自然風景に興味をもち、海景や渓流など同じ主題に取り組み、死の直前まで精力的に筆を握り、春陽展への出品を続けました。徳三郎の死後、美術界での扱いの低さに対して、画家の硲伊之助は「もっと評価されるべき画家」と憤慨したと逸話が残っています。
本展は、小林徳三郎の初の大回顧展であり、約300点の作品と資料により、その画業の展開を追うものです。写真家、洋画家、文学者、演劇関係者、美術評論家ら大勢から愛された画家による、どこか心惹かれる日常的な光景をお楽しみください。
《鰯》1925年頃 碧南市藤井達吉現代美術館
《鰯》
1925年頃 碧南市藤井達吉現代美術館
《花と少年》1931年 ふくやま美術館
《花と少年》
1931年 ふくやま美術館
小林徳三郎は選んだ題材を、とことん描きました。その最初期の例が、のちに徳三郎の妻となる政子で、さまざまな姿を捉えたスケッチなどが残されています。また、港や岸辺の風景、見世物や観客の様相にも強い関心をみせました。東京美術学校やフュウザン会で出会った仲間たちと切磋琢磨していた頃、油彩と水彩だけでなく木版やエッチングにも取り組み、画風は細やかなタッチから、ラフなものへと展開しました。この頃に知り合った友人のなかで、その後も関わりが特に深かった眞田久吉、萬鐵五郎、木村荘八、硲伊之助の作品もご紹介します。
《港のみえる風景》1915年頃 個人蔵
《港のみえる風景》
1915年頃 個人蔵
劇団「芸術座」の看板俳優・松井須磨子が公演『復活』で披露した劇中歌「カチューシャの唄」は現在でも知られる大ヒット曲ですが、当時、小林徳三郎は同劇団の舞台装飾の仕事をしており、松井須磨子は徳三郎の支援者でもありました。本展のための調査によって発見された膨大な資料のなかから、舞台背景、衣裳、美術のデザイン案とともに、戯曲や小説、『文章世界』など出版物のために手がけた下絵や原画を展示。当時の仕事ぶりを掘り起こします。
《『ナカヨシ』木馬館 画稿4》1915-18年頃 個人蔵
《『ナカヨシ』木馬館 画稿4》
1915-18年頃 個人蔵
大正時代末期から昭和8(1933)年頃までが、小林徳三郎の洋画家としての最盛期といえるでしょう。春陽会の仲間から「鰯の徳さん」と認識されるほど周囲に強い印象を与えた大胆な筆触による魚の作品、屈指の名作《金魚を見る子供》をはじめとする家族を描いた代表作を一堂に展示します。小説家の林芙美子は徳三郎の作品を所蔵しており、彼の作品の魅力を「空気のはいった、生活のはいった何気なさにある」と表現しました。
《西瓜》1932年 広島県立美術館
《西瓜》
1932年 広島県立美術館
《子供たち》1932年 個人蔵
《子供たち》
1932年 個人蔵
《鳥籠》1930年 ふくやま美術館
《鳥籠》
1930年 ふくやま美術館
余儀なくされた療養から復帰後、南画風の風景画なども好んで描くようになります。晩年は、人物、静物のほか、入り江、渓流、自宅周辺などの風景を題材に多く描き、素朴ながらも風格を備えた作品を残すと同時に、洒脱な静物画も好んで描きました。東京国立近代美術館における洋画第一号の収蔵作品となった《海》や、支援者であり親友でもあった福原信三を描いた《室内のF氏(F氏の居間)》といった代表作だけでなく、気軽に描いた素描類も見どころのひとつです。
《海》1942年 東京国立近代美術館
《海》
1942年 東京国立近代美術館
《お盆の柿》1945年 ふくやま美術館
《お盆の柿》
1945年 ふくやま美術館
《金魚を見る子供》1929年 広島県立美術館
《金魚を見る子供》
1929年 広島県立美術館
《金魚を見る子供》1928年 東京国立近代美術館
《金魚を見る子供》
1928年 東京国立近代美術館
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