1930年代以降の日本は、太平洋戦争へと傾斜を深める一方で、写真などのグラフィカルな視覚文化が到来し、建築や生活文化が変貌するなど、モダンとクラシック、都会と地方の両極で揺れ動いた時期でもありました。
そしてこの頃、先端的な意識をもった人々が相次ぎ東北地方を訪れ、この地の建築や生活用品に注目しました。1933年に来日したドイツの建築家ブルーノ・タウト、民藝運動を展開した柳宗悦、1940年、商工省に招聘されたフランスのデザイナー、シャルロット・ペリアンなどがその一例です。
また、昭和に入ると民藝運動に呼応するように、素朴なこけしや郷土玩具を収集する動きが広まりました。さらには、考現学の祖として知られる今和次郎や、『青森県画譜』を描いた弟の今純三、東北生活美術研究会を主導した吉井忠ら東北出身者たちも、故郷の人々と暮らしを見つめ直し、戦中期の貴重な記録を残しています。
本展は、こうした東北に向けられた複層的な「眼」を通して、当時、後進的な周縁とみなされてきた東北地方が、じつは豊かな文化の揺籃であり、そこに生きる人々の営為が、現在と地続きであることを改めて検証するものです。
*会期中一部展示替えがあります(前期7/23~8/21、後期8/23~9/25)
1933年に来日したドイツの建築家、ブルーノ・タウト[1880-1938]は、仙台の商工省工藝指導所でデザイン規範を約半年間指導した後、高崎でも工芸品のデザインや指導に携わりました。仙台滞在時を除くと、東北への旅は大きく分けて3回にわたり、1936年2月には版画家・勝平得之の案内で秋田を再訪。雪国の祭りや風物を楽しんでいます。1章では、タウトの秋田の旅を年表形式で追うとともに、仙台や高崎でデザインした工芸品、死後に日本の友人に託された日記、アルバム、原稿などの遺品を展示し、東北での足跡を辿ります。
文芸雑誌『白樺』の編集をしながら美的興味を開眼させていった柳宗悦[1889-1961]は、1925年、「民衆的工藝」を略語化した「民藝」を提唱。日用品が工業製品化されていく世を憂い、手工芸の中に「生活に即した」「健康的な」独自の美を見出した柳は、1927年から1944年までに20回以上、東北を訪れています。後進的とみなされてきた東北は柳にとって「驚くべき富有な地」であり、「民藝の宝庫」でした。2章では、柳が東北各地で収集した蓑、刺子、陶芸などの品々や、同人、芹沢銈介や棟方志功の作品を展示します。
昭和初期の旅行ブームとともに地方への関心が高まると、本来、子どもが楽しむものであった郷土玩具は、大人の趣味・収集の対象となっていきます。1930年、童画家・武井武雄が自らのコレクションを収めた『日本郷土玩具集』を出版すると、収集熱は一層高まり、各地に収集のネットワークが広がりました。3章では、土人形(宮城の堤人形、山形の相良人形など)、張子人形(福島の三春人形など)、東北各地のこけしを系統別に展示し、もうひとつの手工芸ともいえる郷土玩具の世界を紹介します。
経済恐慌や凶作に陥った東北地方の救済の道を探ろうと、1933年、農林省は山形県新庄に積雪地方農村経済調査所(通称「雪調」)を設置。識者の助言のもと、雪害の研究と対策、農村の副業の基盤整備、農産物加工の指導と伝習を推進します。柳宗悦は濱田庄司らと東北各地で講習会や品評会を催しながら東北の民藝を盛り立て、商工省が招聘したフランスのデザイナー、シャルロット・ペリアン[1903-1999]は山形の素材とモダンデザインを融合させた家具を試作し、民家研究の第一人者で青森生まれの今和次郎[1888-1973]は雪害を受けにくいトンガリ屋根の試験農家家屋を設計するなどしました。4章では、雪国の農村にユートピアを夢見た雪調の活動を追います。
今和次郎は、民俗学者・柳田國男らと行った日本各地の民家調査をもとに、1920年代以降、東北の近代化と生活改善にも力を注ぎ、大越娯楽場(福島)や生保内セツルメント(秋田)などを設計しました。また、和次郎は、都会の人々の行動パターンや装いを独自の目線で路上観察し、データを採集、分析する行為を「考現学」(考古学に対する造語)と名づけます。この手法を引き継いだ弟の今純三[1893-1944]も、郷里で考現学を実践し、『青森県画譜』を制作しました。5章では、知的でユーモラスな今兄弟のスケッチで浮かび上がる、東北の暮らしの風景を紹介します。
はじめシュルレアリスムなどの前衛芸術に傾倒していた福島出身の吉井忠[1908-1999]が、1941年から3年間、東北各地の農村漁村を訪ね歩き、作業を手伝いながらスケッチやメモにまとめた『東北記』は、物資の乏しい戦時下において、貧しくも粘り強い人々の営為の貴重な記録です。6章では、埋もれがちな東北の生活文化を丹念に描いた吉井のスケッチ類を展示します。