メスキータ

会期:2019年6月29日(土)-8月18日(日)

【休館日】
月曜日[7月15日、8月12日は開館]、7月16日(火)
【開館時間】
10:00 - 18:00
※金曜日は20:00まで開館
※入館は閉館の30分前まで
【入館料】
一般(当日)1,100円 高校・大学生(当日)900円
一般(前売)900円 高校・大学生(前売)700円
※中学生以下無料
※20名以上の団体は、一般800円、高校・大学生600円
※障がい者手帳等持参の方は当日入館料から100円引き(介添者1名は無料)

[チケット販売場所]
東京ステーションギャラリー(開館日の閉館30分前まで)
ローソンチケット(Lコード=33345)、イープラスCNプレイガイドセブンチケットにて取扱い
※前売期間は2019年4月27日から6月28日まで
※東京ステーションギャラリー受付での前売券販売は6月16日までの開館日
[東京駅周辺美術館学生無料ウィーク]
7月20日(土)~7月31日(水)
この期間、受付にてご本人様の学生証提示で入館料が無料
【主催】
東京ステーションギャラリー[公益財団法人東日本鉄道文化財団]
【企画協力】
キュレイターズ

知られざる画家の全貌
――メスキータ、4つの疑問

1.メスキータって

サミュエル・イェスルン・デ・メスキータ(1868-1944)。この聞き慣れない名前の人物は、19世紀後半から20世紀前半を生きた、オランダのアーティストです。ポルトガル系ユダヤ人の家庭に生まれ、ハーレムやアムステルダムで、画家、版画家として、また、装飾美術の分野でデザイナーとしても活躍しました。その一方で、美術学校の教師として多くの学生を指導しています。中でもM. C. エッシャーは、メスキータから最も大きな影響を受けた画家で、特にその初期作品は、メスキータの作品と著しく類似しています。

2.メスキータはを描いた?

メスキータの仕事は、デザインとアートの双方にまたがっています。デザインの分野では、幾何学的な構成を生かし、雑誌の表紙や挿絵、染織デザインなどを手がけました。一方アートの分野では、まず版画家として、主に木版画で人物や動物、植物を題材に白黒のコントラストを強調した作品を数多く残しました。また、想像力のおもむくままに筆を走らせた、膨大な数のドローイングを制作しています。

3.メスキータのどこが見どころ?

メスキータの最大の魅力は、木版画の力強い表現にあります。鋭い切れ味の線描による大胆な構成、明暗の強烈なコントラストを生かした装飾的な画面は、見る者に強い印象を与えます。アムステルダムの動物園や植物園に招来された、異国の動植物がメスキータの格好のモチーフでした。単純化された構図と明快な表現、装飾性と平面性が溶け合った画面には、しばしば日本の浮世絵版画の影響が指摘されます。一転して、ほとんど無意識の状態で浮かんでくる映像を作為なく描いたと言われるドローイングは、表現主義との親近性を感じさせるとともに、シュルレアリスムにおけるオートマティスム(自動筆記)の先駆けと言えるかもしれません。

4.なぜ今、メスキータ?

ユダヤ人であったメスキータは、1944年に強制収容所に送られ、そこで家族もろとも殺されました。アトリエに残された作品は、エッシャーや友人たちが持ち帰って命懸けで保管し、戦後すぐに展覧会を開催します。メスキータの名前が忘却されずに残ったのは、エッシャーらの尽力によるところが少なくありません。近年のヨーロッパでは、カタログ・レゾネ(全作品目録)が発行され、相次いで展覧会が開かれるなど、メスキータの作品の包括的な紹介と評価の気運が高まっています。折しも昨2018年はメスキータの生誕150年にあたり、今年2019年は没後75年を迎えます。本展は、これを機に、知られざる画家メスキータの画業を、版画約180点、その他(油彩、水彩など)約60点、総数約240点の作品を5つの章分けで、本格的に紹介する日本での初回顧展です。

メスキータ略年譜

1868
アムステルダムでユダヤ人の家庭に生まれる。
1885
国立応用美術学校に入学し建築を学ぶが、1年後に国立教育大学に転ずる。
1893
初めてエッチングを試みる。
1895
バティック(ろうけつ染め)の技法を始める。
1896
初めて木版画を制作。
1900
染織デザイナーとして、カーテンやテーブルクロスなどのデザインに従事。
1902
この年から、ハーレムの応用美術学校で教師として働く。
1904
M. C. エッシャーが同校に入学し、メスキータの指導を受ける。
1908
この頃、アムステルダム動物園に通い、異国の動物たちをテーマに多くの木版画を制作。
1909
ロッテルダムで初めての個展を開催。
1919
リトグラフで多くの作品を制作。
1921
グラフィックアート協会の会長に就任(~1924)。
1926
応用美術学校が廃校となり、教師を辞める。
1933
国立視覚芸術アカデミーの教授となる(~1937)。
1940
ナチスによるオランダ占領。オランダのユダヤ人迫害は、他のナチス占領地域と比べて最も過酷であったと言われる。
1944
1月31日夜、妻、息子とともにナチスに拘束される。アトリエに残された作品は、エッシャーや弟子たちが命懸けで持ち帰って保管した。妻とメスキータは3月11日にアウシュヴィッツで、息子は20日後にテレージエンシュタットで殺された。