長野
子供流鏑馬の維持と伝統の継承

長野県 大町市

平安時代から戦国時代にかけてこの地を治めていた仁科氏によって、五穀豊穣の祈りとして続けられたもので、流鏑馬の由来は、承久3(1221)年に後鳥羽上皇が北条義時追討の命令を出した時、院の西面の警護を仰せつかり、上皇に忠誠を誓った仁科盛遠が出陣に際し神前に流鏑馬を奉納し武運を祈ったことに始まったと伝えられている。また、京の都との関りの深かった仁科氏は、京都加茂神社の流鏑馬に造詣が深く、これを支配地であり故郷でもある大町に伝えたともいわれている。

この流鏑馬は、明治維新までは仁科神明宮と若一王子神社とで共通して行っていたもので、旧暦6月16日には仁科神明宮で、翌17日には若一王子神社のそれぞれの例祭において、同じ射手が行ったが維新後、神明宮においては、経済的な事情からこの流鏑馬を続けることができず、若一王子神社だけでこの流鏑馬を続けてきたのである。大町にあっては、上仲町の伊藤重右衛門氏が、射手を一般氏子から選出することを提唱し、私費を投じて何騎もの流鏑馬の馬具や衣装等を購入し、各町内に寄贈、現在のように若一王子神社奉祝祭に、十町より十騎の流鏑馬が出場する大町流鏑馬の基を築いた。

現在の射手は各町より10騎出場し、7才から9才位の子どもが選抜され、射手は、顔に化粧をし、陣羽織をまとい、太刀をさし、重藤の弓をもち、箙(えびら)には矢をさし、三蓋笠(さんがいがさ)をかぶり騎馬し、昔ながらの射手装束を着て町内を一巡し神社の境内の三ヶ所の的に矢を射て豊作を祝い、馬には、口取り役、うちわ役、笠役、後衛役、弓持役、介添役等がとり囲み、威勢をつける。

若一王子神社の流鏑馬は豊凶を占う神事として行われたのを起源とし、中世には流鏑馬の形式が取り入れられ、更に明治維新期には10町から10騎の流鏑馬が出るという現在の基が築かれ、今日までその伝統を受け継いできている。しかしながら、近年の人口減少に伴い、人的にも経済的にも流鏑馬保有町には、その負担が重くのしかかってきている。

今回の支援では、痛みの激しい馬具及び装束の修理新調等を行い、歴史ある流鏑馬の伝統文化を末永く継承していく。

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